Juno Mizobuchi溝渕珠能
私たちが日常的に<風景>を見る時、今までの自分自身の経験・使っている言葉や名前などのフィルターを通じてそれを認知している。
モチーフを使わずに色や造形を組み上げた作品は、既存の経験則やモノの見方では、簡単に理解し説明できない<風景>を描く。
自分自身の認知に染みついたフィルターを外してその<風景>を眺めたとき、私たちはモノをどう見つめ・何に美しさを感じるかという意識を高い純度で感じることができる。つまり作品はみているあなたそのものを表現している。
1992年香川県生まれ。京都精華大学卒業。主に絵画作品を制作する。作品展示、アートワークの提供、壁画の制作などを行う。単純で小さな行為により、現在の自分を感じる作品を制作する。
風景画、風景写真や、例えば実際に高所から見下ろした俯瞰の風景など、〈風景〉というものを想像した時にはこのような情景を思い浮かべると思う。人が自分の見ている視界は現実であるということを肯定した上で、これまでに得た知識によって視界を理解し、認識した時に初めて風景は存在する...
私の絵にモチーフはなく、〝色や形の配置とそれ以外の空間〟により構成されている。
人が風景として認識する前から存在する〈無形の風景〉を私たちが見ることは決して叶わないが、小さな要素により構成された画面は、その風景へとつながっているのではないか。
私たちが個別にもつ言葉を超えた視界に映る万物のイメージが、そこに立ち現れるのではないだろうか。
僕が描いているのはこれまでに見た風景のイメージを摘み取ったものだろう。
風景ではあるが、そのフォーカスの度合いは鑑賞者によるところである。
風景の中にある一つのオブジェクトにフォーカスするのであれば、それはモノになる。
ただ重要なのは、その先に続くのはまた風景ということだ。